その後の山月記


中島敦著『山月記』のその後の話。



 数年後のことである。袁傪は友人の頼みを聞き入れ、彼の妻子を養いながらも立派に自らの職を全うしていた。彼の元には自然と人が集まり、各地へ巡回する際も邪魔にならない程度に多くの部下が付き添っていた。その中の幾人かは、かつて袁傪と共に彼の友人と邂逅した者達だ。そして、袁傪は再びその地へとやってきていたのだった。


「袁傪さま」
 部下の中でも一際若い少年が、恭しく袁傪に声をかけた。彼は袁傪自らが彼の能力を認め、ここ何年か常に側に置かれている。懐かしさに浸っていた袁傪はふいと視線を向けた。
「出立の準備が整いました」
 彼はひとつ頷き、一行に出発するよう命じた。応じるように少年が素早く袁傪の隣に座り馬に鞭をふるうと馬車が動き始めた。まだ朝が早く靄がかかっていたが、駅史は引き止める事無く一行を見送っている。人喰い虎の噂は随分と前に消えていた。袁傪は名残惜しむように一度宿駅を振り返ったが、しばらくして都の方角へと顔を戻した。その様子を見てか、少年がおずおずと袁傪に
「この辺りは昔、人喰い虎が出たと聞きましたが、大丈夫でしょうか」
と尋ねた。恐らくは、昨夜のうちに部下の誰かもしくは駅史にでもその話を聞いたのだろう。袁傪は皺の増えた顔をくしゃりとさせて微笑んだ。
「昔話をしようか」
 少年は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに尊敬する主の話に耳を傾けた。遠い昔、虎となってしまった友人の話。自嘲的で人一倍臆病で、心根の優しいのを他の誰にも理解されることなく、皮肉な運命に翻弄された男の話である。抑揚ある袁傪の昔語りに少年は自然と聞き入っていた。主の若かりし頃に時に微笑み、その友人との邂逅には苦しげに顔をゆがめた。話がようやっと終わろうとしていた時、一行の前方から悲鳴が沸きあがった。彼らは既に林中を通っていた。馬たちの足並みが崩れる。少年はすっと顔色を変え、馬車を止めた。
「何事だ!」
 鋭く尋ねると、転がるように逃げてきた部下の一人が恐怖に顔を染めながら答えた。
「虎です! 人喰い虎です!」
 驚いて少年が身をこわばらせる間に、袁傪は本能的に馬車から飛び降りた。引きつる足で悲鳴の上がったほうへ向かう。
「袁傪さま!」
 少年が呼んでも答えず、彼は逃げ惑う部下たちの間を突き進み程なく足を止めた。その目の前には、老いた、一匹の虎が立っていた。牙の覗く口からは血が滴り落ち、地にはうめく人影が幾人かあった。虎は目をぎょろりと動かし袁傪を見た。次の瞬間には、少しも迷わずに袁傪に踊りかかろうとした。――しかし。
「お逃げください、袁傪さま!」
 少年がおよそ身体に不釣合いな大刀を虎に向かって突き出し、彼らの間に割って入った。虎はニ三歩後退し、警戒するように低く唸り声を上げる。目の前の出来事に整理のつかぬまま、それでも少年は主を守ろうとしていた。必死の形相である少年とは裏腹に、虎はどれから襲おうか品定めをしている様だった。やっと我に返った袁傪は、自分の腕を掴み逃がそうとする部下の手を振り払い「待ってくれ」と叫んだ。少年は、虎を凝視したまま
「何を悠長なことを言っているのですか! お気持ちは分かりますが……っ」
 もはや少年の声も聞こえないのか、袁傪は虎に向かって呼びかけた。
「主はもしや、李徴ではないか?」
 哀願するような袁傪の声と同時に少年の大刀が空を切った。虎が袁傪へと襲いかかろうとしたのだ。大刀は虎の毛すら掠らず土をつけるのみだった。その一瞬の隙を虎は逃さなかった。前方へ大きく踏み出していた少年に向かって地面を蹴り牙をむいた。鈍い音がして土埃が舞い、袁傪が後ずさりながら見やれば、少年が押さえつけようとしてきた虎を辛うじて避け、肩で息をしながら木にもたれかかっていた。虎は老いの所為か、地面からすぐに起き上がったものの少年が袁傪の元に戻るまでの時間を与えてしまった。袁傪はその様子を驚懼の眼差しで捉えていた。虎の爪によってか少年の肩からは血が流れている。
「貴方様もわかっているはずです。もし、この虎が先ほど話したご友人だとしても……疾うに人ではありません」
「ああ、だが……」
「しっかりなさってください!」
 少年は袁傪を見もせずに叫んだ。虎は既に体勢を整え此方の様子を伺っている。やはり体力が衰えているのか、次の一息で仕留めようとしているのだ。殺気と共に毛は逆立ち、目はつりあがり、口からは抑制しきれていない涎が溢れ、抉られた地面に落ちた。
「私は袁傪さまのお話を疑う気は少しもございません。貴方が彼をご友人であるというならそれも信じましょう。ですが李徴さまとは、人間であった時に既に永遠の別れをなさったはず。ならば、人間であるその方とは二度と再び会うことはないはずでしょう! それとも、貴方を取って喰らおうとした虎を、友と、人間と呼ぶのですか!」
 袁傪はもう少年に言い返す言葉を持っていなかった。けれど人の情とは簡単に断ち切れるものではない。彼の顔が悲痛に歪む。虎と少年は対峙したまま一歩も動かない。部下の多くは袁傪たちの後ろで息を潜め、ただ佇んでいた。虎が、動いた。
「袁傪さまっ」
 一声叫び、少年は大刀を振るう。だがその鋭い刃は虎の牙にいとも簡単に捕らえられてしまった。足を地面に突き立てて、彼は柄を離そうとはしない。狙いを定めたのか、虎の目は少年を通り過ぎ袁傪だけを見ていた。
「お願いです、逃げてください!」
 牙が刃を貫く音がした。刀身は噛み砕かれその上部が袁傪の足元に突き刺さる。虎に突き飛ばされ少年は土埃を上げて粗い地面を転がった。虎は、目をむき足をよろけさせながらも猛々しく咆え、倒れこむように袁傪に覆いかぶさった。一瞬の出来事であった。
 荒く息を吐き出しながら、少年は主の下へ駆け寄った。彼は肩だけでなく全身至るところから出血が見られる。
「袁傪さま……っ」
 震えるような叫び声に答えるものはないかと思われたが、ひとつも動かない虎の下から、微かに音がした。少年は顔をはっとさせ、柄だけになった大刀で半ば無理矢理虎の体を動かした。そこには血と汗にまみれてはいたが、確かに袁傪の顔があった。息音も聞こえる。
「待っててください、今助けます!」
 少年の言葉に部下たちが一斉に動いた。口々に袁傪の名を呼び、虎の体を引き摺り下ろす。仰向けにさせれば、虎の咽には深々と折れた刀身が突き刺さっていた。部下たちの手によって袁傪は馬車へと運ばれ、応急処置をしようと知識のあるものが慌しく集まった。彼らの中の一人の腕を袁傪は震える手で掴み、か細い声で言った。
「あれを、葬ってやりたい。ここを動いてくれるなよ」
 そうして糸が切れるように意識を失った。


 袁傪の言葉通り一行はその場を動かず、彼が目覚めるのを待った。彼についていた血のほとんどは虎のもので、袁傪自身の傷は驚いたことにないに等しかった。袁傪が眠っている間に彼らは犠牲となった仲間たちを丁重に葬った。一方、虎は咽から刀身は抜かれたが、それ以外は全く触れられなかった。二刻ほどすると、袁傪が目を覚ました。
「ご気分はいかがですか」
 疲労の色を見せず少年が袁傪に尋ねた。袁傪はしばし躊躇して頷くだけに留めた。少年は目を伏せ、「痛いところはございませんか」と再び尋ねると、今度は「大丈夫だ」と答えがあった。袁傪が目覚めたことを部下たちが伝え合っている中、少年は袁傪の一番傷の深かった掌の包帯を巻き変えていた。あの虎のように老い、皺の寄った掌。その手は今、僅かに血の匂いをさせている。
「私は友を殺した」
袁傪は小さく呟いた。
「私は友を殺したのだ」
 魂魄が抜け切ってしまったような声だった。包帯を巻き終えると、少年は彼の手をそっと取って頭を振った。
「いいえ、袁傪さまは私たちを守ってくださったのです」
 思いがけない言葉に、袁傪は息を呑んだ。少年は顔を上げないまま続けた。
「どうか貴方様をしかとお守りできなかった我等をお許しください」
 それは袁傪のしたことを正しいと云う声であった。袁傪にとって彼の言葉は決して事実を無に帰すものではなかったが、少年の気持ちは痛いほどに伝わった。節くれだった手を袁傪は優しく握り返した。
「ありがとう、李昉。これからも共にいてくれるか」
 主の穏やかな声音に、李昉は年相応の柔らかな表情で頷いた。
「もちろんです、袁傪さま」
 袁傪は一息はくとゆっくりと立ち上がり、李昉の手を借りて馬車を降りた。部下たちは我先にと袁傪の後に続き、目を見開いたままの虎の前まで歩いた。袁傪は力尽きた虎に跪き、瞼を下ろさせた。そのまま頬までさすり、手を離せば虎は穏やかな表情をして見せた。永遠の友を想い、袁傪は瞳を閉じる。誰からともなく一行はそれに従った。もう一度目を開けた時、そこには虎などいなかった。
「ありがとう。そしてさらばだ。永久に君のことは忘れまい――我が友、李徴よ」


 風が静かに、彼らの頬を撫でていった。