ワン・デイ
人を殺そうと思った。
カッターナイフをスカートのポケットに忍ばせながら、まず誰を殺そうかと考えた。最初に妹の亜月の顔が浮かんだが、生憎まだ学校から帰っていなかった。
階下に降りて玄関に向かうと、母に何処に行くのかと尋ねられた。
彼女を殺そうかとも考えたが、中々難しそうに思えて、「ちょっと散歩」とだけ言って家を出た。後ろから母に「制服汚さないでね」と言われたけれど、これからの予定上、制服は残念ながら赤く染まってしまうだろう。言いつけは守れそうにないです、お母さん。
午後四時のアスファルトは良い具合に熱を反射させていた。そのアスファルトには木陰がくっきりと映っている。
適当に歩き始めながら、さて、と私は考えた。改めまして、誰を殺そうか。
できたら同年代は避けたい。特に同じ学校の人。もし捕まった時に、いじめ問題だとか云々報道されたらカッコワルイに違いない。
とそこで目に入ったのは公園で走り回る子供たちだった。結構大騒ぎをしていて、鬼ごっこだろうかと思いつつ近づいてみた。ぱっと見はそのようだったが、よく見ると追いかけられている方の子供たちは半べそで、鬼ごっこにしては随分リアルすぎる。次いで追いかけている方を見ると、大柄な『ガキ大将』らしい男の子だった。
彼らは砂場の周りをぐるぐると走り回って、半べそのほうは時々振り返っては叫び声をあげていた。一方ガキ大将は、何も言わずにただ追いかけている。
しばらく見ていると、ガキ大将の足が縺れ前のめりになり、ズサッとこけた。他の子供たちは、之幸いと公園を駆け抜けていった。
私はポケットのナイフに軽く触れてから公園に足を踏み入れた。ガキ大将は地面に突っ伏したまま動かない。彼の頭にまでいってしゃがみこみ声をかける。
「大丈夫?」
ガキ大将の肩がぴくりと動き、少ししてから彼はのそのそと顔を引き上げた。顔は砂だらけで、さらに鼻血が出ていたが泣いてはいなかった。砂だらけじゃない場合のその顔に、見覚えがあるような気がした。
「大丈夫」
無愛想な声でそう言うと、服の裾を引っ張り顔を俯かせて、ごしごしと鼻を拭き始めた。
私は彼の真正面にしゃがんだまま拭き終わるのを待つ。しかし、すぐには拭き終わらなかった。その間私は、どこかに連れ込んだほうがいいだろうかと思案する。小学生くらいとはいえ、大柄な男の子であるから抵抗されると簡単には殺せないだろう。
明日の授業まで思考が飛んでいっても、ガキ大将は鼻を拭き続けていた。
「もしかして泣いてんの」
「泣いてない」
口から出た問いには、意外にもしっかりした声が返ってきた。それから鼻を盛大にすすった後、顔をあげた。鼻血は止まっていたが、頬にまで血が広がっていた。
「おれは泣かない」
此方を睨みつける表情とは裏腹に、大人びた声音だった。
「男の子だから?」
と尋ねると、彼は頭を振って答えた。
「お母さんと約束したから」
そこにはきっと親子の色んなものが詰まっているんだろう。私はそれ以上追及せずに、今度は半べそを追いかけていた理由を尋ねた。打って変わって少年はすぐに返答した。
「あいつらが、おれと遊ばないって言うから」
唇を突き出して、拗ねているように見えた。
「おれと遊びたくないって。でも友達と遊んでないと、お母さん心配するから……」
「君は遊びたくないの?」
ぱっと目を見開かせて、少年は驚いた表情をした。私はそのまま続ける。
「お母さんのことは置いといてさ、君自身は皆と一緒に遊びたいわけじゃないの?」
「えっ……」
彼は見るからに動揺して口ごもった。俯いてぶつぶつと何事か呟き、ついには黙り込んでしまった。私は顔を覗き込むように首を傾けて「違うの?」と後押しした。すると、少年は赤くすりむいた膝小僧を握ったまま小さな声で言った。
「みんなと、あそびたい」
私の口元は自然と緩んだ。しかし少年は暗い表情で続けた。
「だけど、みんな、おれのこと嫌ってるから……」
その暗い表情で思い出した。確かこの子は、妹のクラス写真の端っこに写っていた子だ。他の子たちの笑顔の中で一人だけぽつんと笑顔がなかった。明らかに浮いていたのを覚えている。不思議と親近感が沸いてきて私は声を引き締めた。
「君は何で自分が嫌われてると思うの」
「……ちょっかいだしたり、いじめたりするから」
「じゃあそれを止めればいいんだよ」
あっさり言い放たれたことが悔しかったのか、少年は唇を噛んだ。
「そりゃ今すぐは難しいと思うけど、だからっていつまでもいじめたりしたくないでしょ」
「そう、だけど……」
きっと本当は、ちゃんとわかっているのだ。今のままじゃ何も変わらないこと、自分が変わらなくちゃいけないこと。ただ、変わる方法が分からないだけで。
「まずは挨拶からはじめよう」
私が微笑と共に言った言葉に、少年はぽかんと口を開けた。
「朝学校行ったら、誰でもいいから挨拶してみな」
「だけど誰も返してくれないよ」
たぶん、と言葉のあとにくっつけた。そこには少なからず、希望が混ざっているだろう。変わろうとしてるんだな、私は思った。
「亜月って子、クラスにいるでしょ?」
「え、宮島のこと?」
「そうその子。絶対、挨拶返してくれるから、その子にまずしてみて」
亜月はいい子だ。この少年のことを話題に出すときも、どこか心配しているような節があった。あの子なら大丈夫。
「やってみなきゃわかんないこともあるよ。明日、やってみて」
「……わかった」
そう言うと少年は立ち上がった。ズボンをはたいた後に、まだしゃがんでいる私を見て
「ありがと、ねえちゃん」
はにかむように笑って駆けていった。
そういえば、最初の目的はなんだったっけか。
年下は駄目だ。
商店街を歩きながら考えた。小さい町ではあるが商店街はわりと賑やかで、あちらこちらから様々な人の声が聞こえる。
年下はこれから先長いんだから、それを断ち切っちゃ駄目だ。なんてったって後味が悪いと思う。そういうわけで、私は商店街を行きかうおば様方に目を向けた。
ほとんどが同じようなパーマ頭に服装。呉服屋を指差して笑いあったり、魚屋のおじさんに声をかけられ夕食のことを考えたり、はたまた急ぎ足で嫁への厭味を考えたりしているのだろうか。不審がられない程度に見ながら、どれがお手軽だろうかと品定めをする。
だが通りの真ん中まで歩いても、これだというものはなかった。
ここにいるおばさん達は、皆人生を満喫しているようだった。幸せとはいえないのかもわからないが、絶対不幸せではないと、言い切れそうな顔をしていた。顔や腕に刻まれた皺が一線一線目に焼きつく。そこにはどれだけの苦労と苦悩があったのだろうか。
そう思うと、カッターナイフの重みが煩わしくなってきた。意外案外、人を殺すのは難しいようだ。
騒々しさが失せると、寂れたコンビニや薄汚れた郵便局が現れた。それから人気のしないビル郡。いつも前を通るたび思うのだが、いったいこの中には何が、何かがあるのだろうか。中に入ってみようか。そんな考えが浮かんだが行動に移す前に、赤いランプ、次いで星のようなマークが目に入った。こじんまりとした二階建ての建物でトイレみたいな壁をしている。開け放たれたドアの向こうに青い制服が垣間見える。つまり、交番だった。
女子高生、白昼に警察官殺害。浮かび上がった見出しに私は大きくうなずいた。ばっちりだ。話題性抜群。ぼんやりと展開を予想して、交番へと足を動かした。
一心にペンを走らせている背中に声をかけた――つもりだったが、出てきたのは肺の中の空気だけだった。不思議に思いながらふと掌を見ると、汗でつやめいている。さらに首筋に違和感を覚えて甲で拭うと、じっとりとした汗がくっついた。
「どうしました?」
気配を感じたのか警察官が不思議そうな顔で私を伺っていた。ポケットに突っ込んでいた手がビクッとはねる。彼は問いを続けた。
「迷いましたか?」
「あ、いえ」
「じゃ、自転車盗まれました?」
「いえ」
「もしかして自首ですか?」
背中に冷たく汗が流れた。咄嗟に答えられずにいると、警察官の顔が不審がるように歪められる。唾を飲み込み相手を見据えて、私はそれを握ってポケットから手を抜いた。
「……拾った、ので」
警察官は拍子抜けしたように口を半開きにした。けれどすぐに引き締めて、差し出した銀色を受け取った。私は顔を俯けて
「じゃあ」
と言いながら早足で歩き出した。警察官が何事か呼びかけてきたが無視した。ポケットのカッターナイフの重みが、より一層煩わしくなる。百円分のプライドが欠けた気がした。
角を二つ曲がったところで速度を緩めた。息を深く吐き出す。とぼとぼとアスファルトを踏みしめながら、鶏肉食べるのをやめようかなと思いはじめたところで
「おうい」
後方から先ほどの声がした。
「足速いな、じゃなくて」
独り言のように呟く警察官を前に、私はぼんやりと銃刀法違反で捕まるのかしらと思案していた。未成年だから注意だけで済まされないかなあ。思いと裏腹に相手は私の手を取って、そこに銀色を置いた。
「届けてくれたお礼な」
私が何か言う前に、その人は踵を返して角を曲がって行った。
手のひらの百円玉は、さっき私が出したものと違ってぴかぴかと輝いていた。
ひょいとガードレールの下を見ると、川が大人しく海のほうへと流れていっている。家を出てから三時間ほどたっただろうか。未だに目的は果たされないままだ。殺しやすい人間なんて、そうそういるものではないらしい。
立ち止まると、弱まった熱気が足を包み込んだ。魚でもいるのか、川の水が微かに跳ねる。陽射しによってきらめく飛沫が目に痛い。からからという空耳がする。それは私の後ろでぴたりと止まった。空耳じゃない。たぶん、鞄についた車輪の音だ。
「何か悩み事ですか」
無視を決め込もうと思った。何かの勧誘みたいにしか聞こえなかった。私は全く動かずにいたのに、しわがれた声は隣にやってきて続けた。
「若い人がこんな時間にこんな場所で、沈んでいるものじゃありませんよ」
ちらりと一瞥すると、おばあさんそのものがいた。灰色の髪はやっぱりパーマがかかっていて、上下同じ色の服を身につけている。おばあさんは視線を私からずらして川を見つめて
「お暇でしたら、話聞いてもらえますか」
落ち着いた声音に、私は動かないことで答えを示した。家に帰るような気分ではなかったし、少しだけ興味がわいていた。おばあさんは目をうっすらと細めた。
「急にごめんなさいね。この歳になると、誰かに話を聞いてもらいたくなって」
「それはたぶん、人間の性ってやつですよ」
そう言うとおばあさんは、少し安堵したように息を吐き出した。
話したいといったのはおばあさんなのに、数分間沈黙が続く。その間に、二度川の水が跳ねた。やっぱり魚がいるんだと思う。
「この歳になってもね、死にたくなるのよ」
ぴくりと肩が動いた。おばあさんの横顔には嘲笑のようなものが浮かんでいる。
「どうせすぐ死ぬってわかっているのにね。焦らなくたって、もうじき死ぬのに、死にたいと思うのよ。先に逝ってしまった夫や息子に、会いたいと、夏は特に想うの」
胸が高鳴った。これは神様、否、死神からの贈り物だろうか。死にたいと思っている人物ほど、殺しやすいものはないのではないか。私は静かにポケットの中へと手を動かす。
「大きな家に一人でいるとね、昔の思い出ばかり浮かんで、消えていくのよ。私も一緒に消えていきたいのに、まだ寿命はこないのね」
大丈夫、おばあさん。寿命は来たよ。
彼女の意識がムコウガワにあるのを確信しながら、ゆっくりと斜め後ろへ足を引く。
「だけど、自分で死んだら夫や息子はきっと怒ると思うのよ。それでも、わかっていても、逝ってしまいたいとい思うときはね」
また沈黙が降りた。おばあさんはじっと、何かを待つようにどこか見つめている。私を待っているのだ、と思った。私はナイフをようやく外へと出した。心臓から全身へ、ぞわりと波が立つ。おばあさんの左胸を見据え、できるだけ静かに刃を出した。
さあそれでは、さようなら。
「ああ、ほら、見て」
あと少しというところで手が止まってしまった。彼女が振り返る気配を感じて、腕を背中に隠した。
振り返ったおばあさんの顔には、さっきの嘲笑とはまるで違う、生き生きとした表情があった。私は冷めた眼でそれを見た。けれど、彼女の指差す方向へ視線をずらすと思わず息を呑んだ。
太陽が沈んでいく、その瞬間を私たちは見た。
川は今までになく光を反射させ、山は青々と佇んでいるがしかし、うっすらと橙に染まっている。空は紅く燃えあがり、ぽつぽつとある雲もまたひそやかに赤らむ。世界が夕焼けに包まれて、わずかに吹く風すらも世界に染まった。遠くでひぐらしが切なげに鳴いている。指先から波が押し返された。
そうして太陽は、また明日というように山に隠れてしまった。
「ねえ、これを見ると、明日も生きてみたいと想えるのよ。明日はもっと素敵なものに出会えるかもしれないって、そう思えるの」
おばあさんはにっこりと微笑んだ。
「つらくなったらね、そっと世界を感じるといいと思うわ」
最後の最後まで少しずれた発言をして、おばあさんはからからと鞄を引いて住宅街へと入っていった。背中が見えなくなるまで見送ってからもう一度空を見ると、紅も山の影へと消えようとしていた。今度は紺青が世界を染め始めていた。
ほうと息を吐き出して、しばらく世界を感じた。退屈な日常は、しばらくはやってこないように思えた。
そして刃を元に戻し、カッターナイフをポケットの中に滑らせた。
終