女子高生はかく語りき




 みっちゃんを見た。朝、駅で。
 髪の毛が随分伸びて、毛先がふわっとしてて、化粧もしてるみたいだった。高校の友達と白い足を並べて、電車の乗降口を陣取って、ぺちゃくちゃ喋っていた。
「ちょっとさ、今日のネイルいい感じだと思わない?」
「つか、あたしがバッグ変えたの気付いた?」
「ていうか一ヶ月経ってもまだこないんだけど。ヤバくね」
 名前を呼ぼうとした声がヒュッと咽にひっこんだ。一方で、無表情に乗り込んでいく周りの乗客に合わせて足が動く。ぶつかりあう肩に端っこの子は眉をひそめて、それでも動こうとしない。顔を背けあう間で摩擦が起こる。身体を押し込むようにして乗車したときに、色とりどりの匂いがまとわりついた。きっと、彼女達の摩擦の名残だ。主張しあって絡みあう、匂い。
 反対のドアまで辿り着き目をやると、みっちゃんと目が合った。それだけで、何も起こりはしなかった。大勢の乗客の一人でしか、みっちゃんの目には映らなかったらしい。
 電車が大きなため息をついた。重い腰を上げて、一揺れ。走り出すと、彼女達の声と向き合う風景の中に彼女の白い足が浮かんだ。全身がむずがゆくなって、ちょっとだけスカートをひきあげる。膝小僧が冷たいドアに触れた。


「里佳、スカート短い」
 おはようもなしに鳴海に言われた。いつも通り鳴海の課題を丸写ししている胡桃(くるみ)も、飛び出している膝を見て「確かに」と同意した。ああ、いや、そのう、と口ごもっているうちに、鳴海が口を開く。
「別に強制はしないけどさ、いい? セーラー服ってのは、膝が見えるか否かくらいのスカート丈が一番映えるの。よっぽど足が長いか短いか以外、私は短くするの認めないから」
「でたー鳴海節! ま、あたしは短くてもいいと思うよ。里佳」
 仏頂面の彼女と、にこやかな彼女に、いつのまにか張っていた肩から力が抜ける。深く息を吐いて、笑った。
「たまたまだって。そんな怖い顔しないでよ」
 言って、ひっぱりあげたスカートを片手で調節する。脳裏に浮かぶ白い足は見なかったことにした。鳴海が満足そうに鼻を鳴らす。
「そうそう。見栄張ってどうすんのさ。得することないよ」
 代わって胡桃は、手を動かしつつも反発した。
「えー、華の女子高生時代に見栄張んなくてどうすんのって思うけど。今のうちに色々やってたほうがいいって、絶対」
 ああ、まあね、とどちらに対する答えか、自分でもわからないまま席につく。見栄を張ってるつもりはなかったが、そう見えたのか。どちらでもかまわないけど。波打つ心臓を押さえて目をつむっているうちに、朝礼がはじまった。


 みっちゃんとは中学時代ずっと一緒にいた。三年間同じクラスで、遠足の時は当然一緒に弁当を食べたし、遊んだ回数も数え切れない。プリクラ帳は彼女とのものばかりだ。
 けど、それだけだった。そんなもんだった。
 成績の差で高校が別になると、ぷっつりと切れてしまった。連絡も、縁も。高一のはじめはメールを交わしていたが、夏を過ぎればそれも途絶え、久々に送ったメールには返信がなかった。彼女の携帯にはもう私のアドレスはないのかもしれない。
 結局その程度なのか、と目を閉じた。それから何もかもどうでもよくなって、あっという間に三年になってしまった。だけど、出会ってしまった。二年と少しぶりに彼女を見て喜んでしまった自分が、たまらなく醜い。いっそこのまま会わなければ、キレイなちっちゃな友情として心に美しく残っただろうに。顔を合わせて、一方的な想いに気付いて、胸が張り裂けそうになって、セーラー服をきちんと着る自分がたまらなく情けなくなった。同時に、彼女の醜さに吐き気がした。
 きっと、もう一生、彼女と出会うことはないだろう。


 夢は何ですか。
 見事に作り上げられた笑顔でその人は尋ねた。日常の中に、無造作にねじ込まれた講演会の講師。私はその言葉で、ぽつんと吐き出された。
 夢は何ですか。
 その人は繰り返す。急に真剣になる周りの空気、伸びる背筋。笑顔が続ける言葉に何もかもえぐり出されてしまう気がして、私は縮こまった。素直でまっすぐで強い言葉が、空っぽの私をなじる。剃刀で切ったような痛みが全身を襲う。
 夢は何ですか、教えてください。大きな声で叫んでください。そして努力をしてください。夢は叶えるものです。夢を叶えて胸を張って、私に伝えてください。
 大きな拍手が起こった。その全てが私をあざ笑っているかのように聞こえて、耳を塞ぐ。鼓膜がそれらを鈍く反響させた。

 体育館の外に出ると、攻撃的な光が頭上に降り注いだ。浮かんでいた汗の玉が首筋を伝い、まだ四月だというのに、と眉を寄せた。ようやく葉桜になったばかりの桜の木が、煌びやかに輝きを放つ。それすらも眩しくて顔を伏せ、人ごみが校舎に飲み込まれるのを待った。
「なに暗い顔してんの」
 肩を叩かれて振り返る。鳴海と胡桃が二人揃って立っていた。
「教室戻んないの?」
 鳴海が不思議そうに尋ねた。彼女は人ごみを見ても、物怖じすることがないのだろう。苦笑いを浮かべて答える。
「人酔いしちゃうから、人が減るの待ってるの」
「そうなんだ」
 ひとつ頷いて、そのまま鳴海は黙った。胡桃は眠たそうな目を瞬かせる。あの、と小さく声を出すと、二人ともおんなじ角度でこちらを見た。
「先帰ってていいよ。気にしなくても」
「いや、別に。暑いし、人少ないほうがうちらも良いから待つよ」
 歯を見せて胡桃が笑う。長い黒髪を片手で押さえあげながら鳴海も頷いた。ちょっと気恥ずかしく思いながら、ありがと、と私は小さく呟いた。同級生たちは、のろのろと歩を進めている。
「そういえばさ。今日のオバサンいらっとこなかった?」
「あーまあね。夢とか、そんなの言われてもわかんないよねえ」
 言い合い、笑う二人を見て私は細く息を吐いた。さっきの拍手が未だ耳に残っている。そして、隣でしゃべる二人の、微かに光を帯びた瞳も。
「里佳は?」
「え」
 急に話を振られて、肩が跳ねた。
「里佳は思わなかった? 夢とか、ってさ」
「ああ……まあ、そうだよね。よくわかんないな」
「だよね。先生とかって、将来何になりたいか考えて大学決めろよっていうけど、無理」
 力なく笑みを浮かべる。同時に心臓をわしづかみされたかのように、身を硬く縮みこませた。高校三年生なのだ。現実がぶり返す。空気の塊が気道で詰まってしまったのか、肺が痛い。
「あ、でもさ」
 人ごみが少なくなり、足を動かしだしたところで、鳴海が言った・
「石田文子、いるじゃん、五組の。あの子、政治家目指してるんだって」
「いしだふみこ?」
 棒読みで繰り返すと、胡桃がぎょっとして言った。
「知らないの? 文Tクラスの石田文子っていったら、下の学年でも有名だよ。一年の時の事件も知らない? 自習時間に騒いでるクラスメイトに黒板思いっきり叩いて黙らせた、っていう」
「あ、それ石田さんのことだったんだ」
「そうなわけ。で、そのとき、『私は政治家になるんだから、邪魔するな』って言っちゃって。以来噂に尾ひれ背びれで有名だよ。まさか知らないとはねえ」
 事件のことは小耳に挟んでいたが、その台詞と本人までは知らなかった。まだそんなことが出来る人がいるとは、と少しだけ感心してしまう。
「いい子だとは思うけどね。ちょっとずれてるのかな。私はあれで政治家になれるとは思わないけど。コミュニケーション能力足りないというか」
 鳴海が肩をすくめ言ってみせる。階段を上り終え、そして、何かを見つけたように眉をあげた。
「ほら、あれ。あの黒髪ポニーテール」
 小声で言われたほうを見ると、背筋をきちんと伸ばして歩み去っていくところだった。私とはまるで対照的なまっすぐな視線。自然と目が細められる。
「顔は美人なんだけどね」
 興味なさそうに胡桃が付け加えた。そのまま目線をそらし教室へ入っていった。


「次からは気をつけてくださいね」
「……はい」
 たぶん、もう使うことはないと思ったけど頷いた。それから本を受け取り、カウンターに背を向ける。羅列される本を睨みながら、自分の記憶を掘り返す。果たして、この手にある黄色の表紙をした本はどこにおいてあっただろうか。
「わからなかったら置いてていいですよ」
 後ろから帰ろうとしていた図書委員に声をかけられる。一応、先輩だから気を遣っているのだろう。私はやんわり笑って首を振った。するとその子は人懐っこい笑顔で、律儀に挨拶をして図書室を出て行った。私は本棚と向き合って、とりあえず小説の棚に向かった。本当に自分が借りたのか疑わしいほどに、見覚えのない光景だった。だいたい、図書館なんて強いられなければ行かないのに……。鳴海節に乗せられたことをつくづく後悔する。
 ふと、シャーペンを走らせる音が耳に入ってきた。目を向ける。かすかに揺れるポニーテールが目に入った。部活生の声をものともせずに、ひたすらに勉強を続けている。石田さんだ。さっき廊下で見たときと同じまっすぐな目で問題を解いている。
 思考が停止して、空間に溶けるように立ちつくした。
 やがて丸つけを終えた彼女が大きく伸びをすると、やっと我に返って全身に血が廻った。本が手をすり抜けて地面に落ち、音を立てる。一つに束ねられた髪が勢いよく振り向いた。
「あっ」
 思ったよりも大きな声が出てしまい、反射のように手で口を押さえた。石田さんはすばやく椅子から立ち上がり、本を拾って私に差し出す。
「はい」
 一言。私が受け取ると、何事もなかったかのように戻っていく。
「あのっ」
 知らず、声をかけていた。あのまっすぐな目に私が映った。何か、と小首をかしげる。その仕草がこれ以上にないほど麗しく、私は息を呑んだ。入れ替わりに言葉が飛び出す。
「石田さん、だよね。あの、政治家になりたいって、ほんとう」
「そうだけど」
 私が疑問にしてしまう前に、石田さんは返答した。この三年間で聞かれ慣れたのだろうか、震えのない声。思わず身をひいてしまいながらも、私は続けた。
「あの、どうして、そんな……今から、政治家になりたいとか、いえるの」
 石田さんは少し思案するように顔を伏せ、少ししてから私を見た。
「本当のことだから。別に、主張したかったわけじゃないけど、言ってしまったから。否定するのもおかしいでしょう。それに、なりたいもの。なってみせるわ」
 嗚呼。そうじゃない。聴きたいのは、それではない。
 不自然に笑みを浮かべると、怪訝そうに彼女の眉根が寄る。
「あなたは? なりたいもの、あるでしょう」
「わた、しは」
 空っぽの内側がえぐられる。口元は歪んだまま、視線を落とす。呆れたとでも言うように石田さんが鼻を鳴らす。
「ないの。そうなんだ。まあ、別にいいけど」
 興味が完全になくなったようで、彼女はもう私を見ることもなく自分の世界へと帰っていった。夕暮れの陽射しがくっきりとした影をつくる。内臓が熱を帯び、内側から肌を焼いている。空いていた棚に本をつっこんで、逃げるように図書室を出た。一度だけ振り向き、見た彼女の後姿は、ひどい猫背だった。


 学校から数分程度の家路を歩き、雲の向こうで微かに燃える夕日を背に受けながら家に入ると、意外にも母の靴がすでにあった。色あせたスニーカーを、かかとで踏み潰しながら脱いでリビングへ向かうと、案の定母が夕食の支度をしていた。
「ああ、おかえり」
「うん……早かったね」
 ジャッ、と勢いよく鍋の中身が舞って私の言葉にかすった。今日は野菜炒めのようだ。細く息を吐くと、母が怪訝そうな声を出す。
「野菜炒め駄目だった?」
 どうやら溜息と受け取られてしまったみたいだ。私は慌てて首を振る。そう、と母が呟き、切り出した。
「里佳、志望校決めた?」
 ソファに鞄を置こうとしていた手が、あからさまに跳ねた。もう一度舞う野菜の間に、溜息が混ざる。コンロの火を消す音がして、私は急いで鞄を掴みなおしリビングを出ようとした。が、間に合わなかった。
「アンタどうするつもりなの? ちゃんと考えてるの?」
 肺に得体の知れないものが膨れ上がって、声が震える。
「考えてるよ、ちゃんと」
「じゃあ、将来何になるつもりなの?」
「それは……」
 得体の知れないそれが、私の中をぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。咽までせりあがって、気持ち悪い。母が今度ははっきりと溜息をついた。
「そんなんじゃ、どの大学に行っても何にもできやしないわよ」
「わかってるってば!」
 自分でも驚くほどの大声が出た。けれど、母はひるむことなく冷静に言葉を返してきた。
「怒鳴ったって何も解決しないのよ。ねえ、ほらお母さん今日は仕事もうないから……」
 その先を聞きたくなくてリビングを飛び出る。足を踏み鳴らして階段をあがり、自室に入ってあらん限りの力でドアを閉めた。階段の下から私を呼ぶ声が聞こえたが、無視をしつづけるとやがて途絶えた。
 その程度なんでしょ、なんて私が言う。どうせ娘の部屋に入ってくるほど、私に興味なんてないのだ。でも同時に、もう一人の私が静かに言う。そうじゃない。お母さんは私のためにしかってくれているのだ。自業自得のくせに、何を生意気な。
 わかってる。母の気持ちも、私の甘えも。わかっているのだ。
 いっそ、何もわからなければよかったのに。
 ベッドの上で膝を抱えた形でうずくまる。涙なんて高尚なものは出ない代わりに、胃液が咽を焼くのを待つ。けれど、吐きそうだなんて思い込みで一滴も伝ってこなかった。本当に吐くことができたなら病人面ができるのに。――不謹慎だと、再び私が叫んだ。
 ようやく落ち着いて、カーテンを閉めようと立ち上がったとき机の上の写真が目に入った。小学生の頃、父と撮った写真だ。これが、父との思い出の最後の一枚。父はパイロットの制服を着こなして、幼い私を抱きしめて笑顔を向けている。当時はカメラを構えた母に。今は、しわくちゃの制服を身にまとう私に。身体に熱が走り、写真立てを投げ割りたい衝動に駆られる。だがすぐに、事後処理のことを考えて目を逸らした。
 父はこの写真を撮った数日後、交通事故で死んだ。誰も恨むことができないような、偶然の不幸だった。父を轢いた人はひき逃げなんてせず病院に運んでくれたが、打ち所が悪く死んでしまった。恨むとしたら、あの日降っていた大雨くらいだ。
 あの時、私の神様は死んでしまったのだ。
 人間はもう、自由に空を飛ぶことは叶わない。


 終礼後トイレに行ってから教室に戻ると、放課後独特の少しざわついた空気が身体にまきついた。三年になり教室に残る人数は増えたが、まだ雑談せずに勉強だけというのは身についていない。それも、五月六月となれば静かになっていくのだろう。その時の自分すら思い描けない私に、気だるさが襲う。
「里佳、帰ってきたんだ。課題提出しにいこー」
 明るい声で胡桃が言った。忘れていた。約束していたのだっけ。急いで頷き、数学のプリントをファイルから出す。軽やかにはねられた赤線を恨めしげに見、やりなおした解答に一応目を通し、そのまま胡桃の後ろについて特別教室へ足を向けた。
 教室横の階段を一階まで下り、左手に曲がる。こじんまりとした授業にも使われない小部屋には、数人の生徒がすでに来ていた。中から、先生の声と赤ペンの音が聞こえる。
「先着だ。時間かかりそうだね」
「うん」
 私達は小部屋前の廊下の窓から外を眺めた。茂る草木の向こうで、金属バットとボールがぶつかりあい、甲高い音を立てた。グラウンドでは、他にもサッカー部の選手の掛け声が交わされ、奥のテニスコートからも打ち合う音が聞こえる。薄暗くなりつつある空にも関わらず、彼らはそれぞれに走り続けている。
「なんかさあ」
 ぽつりと胡桃が呟いた。
「いいよね、部活生って」
「そう? 勉強とか、大変そうだけど」
「それはそうなんだけど。でも、青春、してるじゃん。いいよね。高校生活満喫」
 彼女の言いたいことがなんとなくわかって、黙って窓ガラスにおでこをあてる。もう一球、飛んでいく。
「なんかさ、高校ってもっと楽しいところなのかって思ってた。ほら、漫画みたいに彼氏ができてハッピー、みたいな。そりゃ、できたやつもいるんだけどね」
「わかるよ」
 ゆっくり言葉を返す。ひそかにマニキュアの塗られた爪を、胡桃がなでた。
「他の学校にいった友達見てたりするとさ、いいなあって。うちらこんな勉強ばっかしてんのに、あいつら全然で。そうなりたいわけじゃないんだけど、いいなあって」
 胡桃は言葉を選ぶように続ける。
「なんていうのかな。数学とかしてて何の役に立つんだよって、思っちゃうよねえ。何してるんだろう、あたし、みたいな」
「私は、……焦っちゃうな」
 丸く曲がったプリントに、猫背が重なる。
「前の友達が、オンナノコしてるの見ちゃってさ。すごい、なんていうの、恥ずかしい。でも同時に、前向いて頑張ってる子見ると、焦る。どっちからもひっぱられて、疲れる」
「うん、ちょっとわかるよ」
 めずらしく、胡桃が苦虫を潰したような顔をした。手を伸ばして何もないところをぴんっと指ではねる。丁度よく三球目が飛んで、少しだけ笑った。
「自分が変わってないっての見せ付けられるからいやなのかなあ。今を生きるのに精一杯でさ、変わる気力持ってかれちゃうよ。なのにもう三年! あーあ、時の流れって、残酷」
「随分えらそうねえ」
 突然した声に、二人して飛び上がった。
「先生、驚かさないでよぉ」
 打って変わった笑顔で胡桃が言った。いつのまにか前の組が終わっていたようで、先生が廊下に出てきていた。
「時の流れってねえ、あんたたち、まだ十七歳じゃない」
「でもさっ、先生、思うんだもん。何にもできてないしてないのに、三年生で、受験受験受験! うそだろ、って」
「それはあんたがサボってきたとばっちりよ。自業自得。悩む暇があるなら今頑張りなさい」
 手を差し出されたのでプリントを渡す。胡桃は手に持ったまま部屋に入っていった。そのまま古臭いソファに座る。先生は気にした様子もなく、パイプ椅子に腰掛けて赤ペンをとりだした。
「先生はさ、高校生の時思わなかった? 夢とかわかんない、とか」
「そうねえ。確かに夢とかはわかんなかったかもなあ」
「でしょ」
 嬉しそうに胡桃が身を乗り出す。先生の方は滑らかな手つきで丸付けを終えると、プリントを私に返し、今度は奪うように胡桃のプリントに手をつけた。
「でもその前にこれをどうにかしなさいよ。はい、もっかいやり直し」
 胡桃は何も言わずに大きく身体をソファに埋めた。
「あの、先生」
「ん」
 赤ペンを胸ポケットに戻しながら、先生が首を傾けた。プリントをにぎりしめて、声を出す。搾り出すような声だった。息を吸い込んで、吐き出す。
「夢って見つかるんですか」
 プリントとにらめっこをしていた胡桃も、こちらを見た。急に恥ずかしくなって、私は目を伏せ、それでも言葉を継いだ。
「わかんないんです。何になりたいとか、わからない。大学だって、決まらないんです。石田さんみたいに、どうしたらなれるんでしょう。なんか、もう、自分が情けなくって」
 乾いた笑いが浮かぶ。高校生にもなって、私は何をやってるんだろう。なんにも、変わっていやしない。二三度瞬きを繰り返す。鼻の奥が痛くなって、馬鹿みたいだ、と思った。
「三浦」
 先生が声をかけてくれる。でも、私は顔を上げることが出来なかった。そうしていると、先生がしゃがみこんで私の顔を見上げた。
「あのな、三浦。皆が皆、石田みたいじゃないよ。そりゃあ大学が決まってないのは、ちょっとやばいけど、夢は……個人の意見としては、決まってなくてもいいんじゃないかなって思うよ。それに、決まってたとしても、変わる時は変わるしね」
 もう一度、先生が私の名前を呼ぶ。
「そんなふうに決め付けなさんな。あんたたちはまだ若い、高校生だよ。夢があることはいいことだけど、だからってないことが悪いわけじゃない。そうでしょ。今から何が起こるのかもわかんないんだもの。なりたいものがわからないなら、目を凝らして、その時を逃さないようにしなさい。大学は決めなくちゃいけないから、自分の好きなものとかでいいから端から端まで調べなさい。悩みなさい」
 先生の目が優しげに細められた。あったかい手で、私の手を包み込む。
「ただね、忘れないで。決めるのはあんた自身。どんなものでも、場合でも、決めるのは他人じゃなくてあんた。それは変わらない。だからって責任を全部もてなんていわないけど、他人のせいにはするな。ちゃんと自分を見て、悩んで、夢とかなくてもこんな人になりたいってのでいいから、それに向けてがんばりなさい。悔しくてもつらくても恥ずかしくても、あんたの人生だ。やめるのは簡単なんだから、今はまだ、がんばりなさい」
 零れた水滴が先生のほっぺたに落ちる。先生が微笑んでみせた。立ち上がって、私の頬をてのひらで包む。先生の目に私がいた。
「一人で考えるのがつらいなら、いつでも頼りなさい。そのために先生はいるんだから」
「ぷらす、友達もね」
 胡桃がピースサインをして、笑った。
 空っぽから水滴が零れるたびに、何かが満ちていく気がした。


 今日は遅いらしく、母はまだ帰っていなかった。リビングに入ると、机の上に今日の夕食を書いたメモが置いてある。小さな花がちりばめられた母のお気に入りのメモ帳だった。遠まわしな気の使い方に、思わず笑みがこぼれる。制服から着替えて、メモ通りにハンバーグを温めるとほつほつと咀嚼した。私の帰宅時間に合わせた炊きたてのご飯が一層おいしい。テレビから流れるなつかしの名曲が、やけに胸をくすぐった。
 夕食を終えて自室に戻ると、私は一番好きなレース模様のメモ帳に言葉を書いて、リビングの母のメモの隣に置いた。それから丁寧な母の字が書かれた一枚を大事に剥ぐ。綴った文字を一度振り返り、躊躇いながら、笑ってみせた。


 みっちゃんを見た。帰り道、彼女は一人だった。
 相変わらずの白い足が交互に動いている。私は足を止めた。一本道、私と彼女だけだった。すれ違う、瞬間、目が合った。それだけだった。みっちゃんは少し不思議そうにしてみせたが、大して気にした様子もなく、ローファーを鳴らして歩いていく。反対方向へ。息を吐いて、目を閉じてみる。放課後の温度がてのひらに触れた。その手で携帯を掴む。開いて、メールを作成。あて先の彼女の背中を見つめて、震える指先で送信ボタンを、押した。
 今流行りの音楽が、夕暮れの空気を震わせる。
 それだけだった。私は足早に歩き出し、やがて駆け出した。振り返ることはしなかった。
 みっちゃんの匂いはもう思い出せない。だけど、信じてる。違う、それは嘘だ。そうじゃない。
 息を切らせながら坂道を駆け下る。
 何年かぶりに、空を飛んでみたい気がした。

                                     終