ディエール

 あの日あの時あの人は、俺になんと言っていたのだろう。俺がまだ五歳になったばかりのころだから、覚えていないのも無理は無いかもしれないけれど。今になって思えば、それはあの人が俺だけに向けた最初で最後の言葉だったのだ。


 見渡せば緑ばかりの村にエテナがやってきたのは他でもない、あれを見つけるためだ。あれを捜し求めて早八年が経とうとしている。そろそろ見つかってもいいころじゃないだろうか。そう思いつつエテナは村唯一の書店の扉を開けた。
「ディエールのデビュー作、かい?」
 書店に入るや否や、エテナは小さな村にしてはよくそろった書物に目もくれず、店主に問いかけた。しかし返答はなんとも実りのなさそうなものであった。
「そう。 “エルディンの森”のディエール・エポの最初の作品を探してるんだ。絶版されたのは知ってるけど……書庫の中に残ってたりしないかな」
「さぁ、どうだろうなぁ。うちの村にゃディエールの作品はあんまりないからなぁ」
 ぶつくさ言いつつ店主は店の奥に消えていった。おそらく書庫に行ったのだろう。都会の人間とは違い愚痴を簡単にこぼしはするが、頼まれたことはきちんとやってくれる。エテナは笑みを浮かべながら近くにあった本を読もうと手を伸ばしてやめた。
(ディエールの本はなくて、何で俺のはあるんだよ……)
 エテナは嬉しいような恥ずかしいような複雑な気持ちで、本の迷路に入っていった。

 三時間が経過。エテナは文庫本を二冊半読み終えたところで店主が戻ってきた。黒いはずの髪の毛が埃のせいで白く見える。けれど彼の手に本は一冊も無い。
「悪いなあ。やっぱり無かったよ」
 ぶるんと頭を振って埃を落とすとそう言った。エテナはため息をこぼしそうになったが、そこはぐっと我慢する。代わりに肩をすくめた。
「仕方ないさ。かれこれ八年探してるけど、見つかってないからね」
「八年も!?」
 はずれた音をあげる店主の顔を見やれば目がまん丸になっている。その顔が妙に可笑しくてエテナはふき出してしまった。エテナの笑顔に店主もつられる。それから何かを思いついたように手を叩いた。
「そうだ、あんた、丘の上に行ってごらんよ」
「丘の上、かい?」
「あそこに骨董品店、というのかな。まあ、そういう古いのを集めてる店があるんだよ。」
「へえ。そこには本も置いてあるのかい? おかしな店だね」
「まあ店主が店主だからな」
 伝票らしきものの裏に書店の店主は地図を書いた。丘といってもたくさんあるし、どこにいっても畑と果樹園ばかりで迷うと思ったのだろう。案の定それはエテナの役に立つことになる。なぜなら彼は小さな場所であればあるほど方向音痴になるのだ。
「ほい。出来るだけわかりやすく書いたけど、まあわかんなかったら村の人間に聞いてくれ。この村に住んでてあそこを知らないやつはいないからな」
「ありがとう」
 一言告げてエテナは店を出た。真南にあったはずの日は西のほうへと傾いていた。今日は無理でもせめて明後日には家に帰らないと――此処から三百キロメートルほど離れた我が家を想いながら、彼は地図にある丘に向かって歩き出した、つもりだった。

 結局エテナが丘の上の店に辿り着いたのは空が紅く染まりだしたころだった。歩き始めてから二時間ほど、彼は目的の丘とは正反対の方向でずっとうろうろとしていた。二時間経ってやっとおかしいと気づいた彼は一番近い果樹園で若い娘に問いかけると、娘は大笑いをして正反対であることを教えてくれた。
「やれやれ。こんなに疲れたのは久々な気がするよ」
 癖になってしまった独り言をつぶやいてから彼は店の扉を開けた。扉は今にも壊れそうな音を立ててエテナを驚かせた。店は見た目どおりの細長い形をしており所狭しと物が置かれている。店に入って一番に目がいったのは色を失った木馬だった。本当は白や赤などで着色されていたのだろうが、今ではくすんだ木の色しか見られなかった。視線を右に動かすと大きな棚が壁にぴったりとくっついてエテナを見下ろしていた。棚の中には壷や瓶、見たことも無い置物に古い書物が並べられていた。店の奥にカウンターらしきものがあるが、店主は見当たらない。奥で休んでいるのかもわからないが、とりあえずはいなくてよかったと思う。品物を見ている間店の者にじっと見られるのは苦手なのである。
 書物の中には背表紙に書かれている文字が見えないものもあった。そういうものはひとつずつ引き出して、表紙も読み取ることが出来ないものは中身をぱらぱらとめくった。注意すべき点は本を壊さないようにすることだ。如何せん古いものばかりなのでうっかりしていると紙を破ってしまいそうになる。置かれている本が少なくてよかったと本を手に取りながらエテナは思った。こんなに疲れる作業を続けていたら気が滅入りそうだ。
「何をお探しですか」
 ふいに耳元で声がした。びっくりして思わず本を取り落としてしまったが、背後のものがすばやく受け止める。壊れてはなさそうだ。振り向くとエテナよりも年上に見える、そしておそらく店主であろう人が立っていた。白いシャツに布地のズボンというなんとも貧相な格好をしているが、整った顔をしていた。焦げ茶色の髪は後ろでひとつに束ねているようだ。
「ああ、ええと、ディエール・エポの最初の作品を探しているのだけど」
「おや。お客さんもですか」
「え? 他にも探しにきた方がいらっしゃるのですか?」
「はい。それこそ二時間ほど前にいらっしゃいましたよ」
 先ほどまでエテナが手にしていた本を棚に戻しながら店主は言った。それからカウンターのほうへと戻っていく。エテナは彼を追って奥へと進んだ。それから早口で「本は」と尋ねる。けれど店主はいつの間に用意していたのだろうか、紅茶を二人分カウンターに置いた。椅子を指差してにこりと笑む。とりあえずお茶でも一杯、という意味だろう。エテナははやる気持ちを抑えながら椅子に腰掛け紅茶を受け取った。口の中で林檎の香りが舌をくすぐった。どうやらアップルティーのようだ。飲みながらちらちらと店主を見ていると彼はくすくすと笑った。
「どうやらお客さんも随分なディエールファンのようですね」
「え、ええまあ……」
 なんとなく気恥ずかしくて視線を漂わせていると今度は手作り感あふれるクッキーが出てきた。甘いものは好きではないのだけれど、折角出してくれたのだから、とひとつ手に取り口に放り込むと思ったよりも甘くなく、さっぱりとした味にエテナは自然と笑みがこぼれた。それを見て店主もうれしそうに笑う。
「私の愛娘が作ったのですよ。おいしいでしょう」
「ええ、とても。あの、それで本は?」
 せっかちな客だと思われたかもしれないと頭の隅で思った、が言った言葉は取り戻せないし、せっかちなのは本当だから気にしないでおく。けれどその言葉に店主は困ったように顔をゆがませた。
「期待をさせておいて申し訳ないのですが、実は先ほど言ったお客さんに作品は売ってしまいまして。この紅茶とクッキーはお詫び、というわけです」
 嗚呼どうやら俺はあの人に随分と嫌われているようだ。そう思ってしまうとなんだかしっくりときて、エテナはため息をついた。店主が申し訳なさそうな声で謝る。その声を聞くと逆に申し訳なくなって彼はいやいやと首を振った。
「いいんですよ。貴方の仕事は売ることなんですから。俺がもう少し早く此処に来ていればよかったんです」
 とは言っても落胆の色は隠せていないのだろう、店主がもう一度謝ってきた。沈黙が店の中にとどまる。数分が経ってからエテナは重い腰をゆっくりとあげた。
「お帰りに?」
「ええ。半年ほど妻を待たせていますから」
「それは長いですね。そうだ。このクッキー是非持って帰ってください。四日は持つと思いますから」
「ありがとうございます」
 礼を言うと店主は笑って言った。
「他に私にお力になれることはありますか」
 ない、と返そうとして思いとどまる。じいと店主を見つめると彼は笑顔を返してきた。それには何か裏があるような気がして、エテナは思考をめぐらせる。それから思いついた。
「あります。作品以外のディエールに関するものは、ありますか?」
 その問いに店主は満足そうに笑った。合格、とでもいうような顔だった。彼は何も言わず店の奥へ行き、すぐに戻ってきた。手に六冊の本を持って。
「ディエールの日記です。あまりまめな人ではなかったので冊数は少ないですが、最初の作品から最後の作品までのことが書かれています」
「何故持っているのですか、そんなもの」
「それは、企業秘密ということで」
 うれしそうに店主は笑い、エテナは彼の奥の手に笑いながらため息をこぼした。それかた受け取ろうと手を伸ばした。が、店主は笑うだけでこちらに渡そうとはしない。
「ああ。値段はいくらですか?」
「貴方とディエールの関係についてでいいですよ」
 その一言にエテナはぎょっとした。この人はいったい何を知っているというんだ? 考えても答えに辿り着けないだろうということはわかっていたが、考えずにはいられなかった。自分が作家であるということは知っていたにしても、どうしてあの人と俺につながりがあることを知っているのだろう?
「ふふふ。困っていますね? 大丈夫です。別にそれを聞いてどうこうする気はありません。ただ気になるだけですよ」
 きっとこの人に嘘は通じないのだろうな……直感的にそう思ってもう一度ため息をついた。話す前に残っていた紅茶をすする。店主は笑ったまま待っている。息を吸ってエテナは告げた。
「ディエールは、俺の父です」
 普通の一般人ならば驚く場面だが、店主は驚くそぶりを見せない。むしろ、そうであることが当たり前とでも言い出しそうな表情だ。
「やっぱりそうでしたか。通りで雰囲気が似ていると思いましたよ」
「父と、会ったことがあるのですか?」
 思いもよらない言葉にエテナは目を丸くする。実の息子の自分ですらほとんど会わなかったというのに、自分が偶然出会った店主が父と出会っていて、おそらく日記を直に受け取っていたのだ。驚くなというほうが無理な気がする。
「もうお分かりだとは思いますが日記は彼から受け取りました。息子に渡してくれと言われましたよ。家に帰る数日前なのにですよ? 自分で渡せと言ったのですが聞かなくて」
 そのときのことを思い出したらしく店主は苦笑した。エテナもつられて笑った。うれしかったのかもしれない。父の話を聞くことはほとんどないから。笑ってから彼は首をかしげた。
「あの、どうして父は俺に日記を渡すよう貴方に言ったのでしょうか」
「『あいつはきっと作家になる。その時この日記はきっとあいつの役に立つだろうから』と、言っていましたよ」
 店主に残した父の言葉がなぜだか胸に響いた。それは古い思い出の扉をくすぐるような、そんな感じだった。店主は六冊の日記をエテナに渡す。エテナは迷うことなくそれを受け取った。ずっしりと父の人生の重みを感じたような気がした。

 一日と半分をかけて家に帰り、妻に驚かれてからまた一日と半分をかけてじっくりと日記を読んだ。無駄に大きな字で書かれているところがあれば逆に小さな文字で書かれているところもあり、解読するのには一苦労だった。けれど読むのをやめようとは思わなかった。今までずっと遠かった父にはじめて近づけた気がしたからかもしれない。日記には日常のことや作品を書くために行った取材のことについて、一人旅の極意、思うように書けない辛さ、読者から手紙が届いたこと、それから――家族のこと。父が家を出て死ぬ前まで帰ってこなかったことを、エテナは自分を嫌っているからだと思った。最後に言われた言葉を思い出せないこともありなんとなくそう思っていたのだった。しかしそんなことはなく、父はいつでも自分のことを思ってくれていたようだった。自分の誕生日には必ず日記が付けられており、父が考える息子像も添えられていた。生憎とそんな息子には育たなかったが。それから父が言った最後の言葉も日記には書かれていた。狙ったのかなんなのかわからないが六冊目の最後のページにひっそりと記されていた。同時に父が店主に残した言葉通りに自分が作家になったことも納得できた。思い出せなくても記憶には残っていたのだろう。やれやれとエテナは六冊目を閉じつぶやく。
「言われなくても、なってやるよ、親父」
 カーテンを開けると日差しが眩しくて目を細めた。初夏らしい爽やかな朝だった。まもなく妻がなつかしい大きな声で自分を呼ぶだろう。そうしたらリビングで食事をしながらこのことを話してやろう。どんな風に話したら面白くなるだろうか。エテナの顔は自然と緩んで、笑みが広がる。その頬を風がなでていった。


あの日あの時あの人は、俺にこう言ったらしい。俺がまだ五歳になったばかりのころだから、覚えていないのも無理は無いのかもしれない。結局最後まで思い出せなかったし、記されていなかったらずっと知らないままだっただろう。でも今は、知っている。

“俺を超える、立派な作家になれ”

                                      終